所用で能代高校へ。生徒達がトレパン姿で国道を歩いていた・・・。
能高祭の時期なので、今年は一週間も準備をするのか? と思った。毎年能高祭は6月末だから。
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玄関にはポスターが貼られていた
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もう59回目か。第1回目は私が高校1年のときだったから計算が合うか?
私は、6月15日に樺美智子さんが国会前で亡くなった1960年に入学した。その年に第1回目の能高祭が行われている。その年の生徒会誌を開くと(生徒会誌も第3号)
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文化祭の写真が何枚かあった。この年はまだ卒業記念アルバムなどは作られていないから、貴重な写真だ。1期生や4期生は別として、戦後の卒業記念アルバムは続隆先生が赴任してから始まった。
ブラスバンドの演奏
ブラスバンド
文化祭の演劇 小山内薰 作「息子」
小山内薰「息子」
演じているのは、当時の生徒会長小林太悦(故人)と武田望(九州在住)、斉藤誠(大阪在住)の3名。

喫茶室の様子も写し出されている。
食堂
当時の女子生徒は3年生3名、2年生3名、1年生11名。ほとんどが喫茶部門にかり出されていたのだろう。
その年の学校日誌抄を見ると
学校日誌抄
能高祭は9月24日に行われていた。外にも思い出に残ることは多い。6月3日に「赤痢のための検便」が行われているが、これは5月29日30日に大館で行われた県北総体に出かけた選手・応援団に大量の赤痢患者が出たため。大館駅前の花善でのとりめし弁当による食中毒が原因といわれた。私も兄も参加したが兄は赤痢で当時八幡神社脇にあった組合病院隔離病舎に隔離され、私は何事もなかった(その後進学した大学の寮でも毎年集団赤痢があり「明善寮の赤痢」として有名だったが私は毎年何事もなかった)。7月に「小野選手壮行会」というのがあるが、これは体操の小野喬選手のこと。オリンピックの壮行会。翌年のインターハイで優勝する弟の小野喬夫は2年生だった。
11月5日に「遠足(十和田湖・きみまち阪)」という行事があるが、これは2年生が修学旅行に行っている間の行事。私たちが3年の時にもあったが、11月3日でシーズンが終了した十和田湖は売店も閉鎖され、紅葉も枯れ散り、バス内でののど自慢だけが印象に残った。
11月12日の「一年生植林」は、当時檜山にあった学校林での植林。現地集合、現地解散だった。自転車の脇にスコップを挟み込んで出かけた記憶がある。汽車通の生徒がどう対応したかは不明。
当時の能代高校卒業式は毎年3月7日と決まっていた。国立一期校の入学試験が3月5日~6日だったが、生徒が出る出ないはお構いなしに実施していた。

この年の生徒会執行部は
生徒会役員



学校での用事が終わり、帰りにいつも駐車している場所(事務室前)に戻ったら、三角コーンがあった。何気なく撮影すると
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いつも駐車している場所が身障者用の駐車場に変わっていた。4月からそうなったのかもしれない。今年は学校に行く機会が少ないので、ビックリだった。