昨日送られてきた「抜萃のつゞり」を人間ドッグに持参し、待ち合わせ時間に読んだ。
Image0046
今回の見出しを見ると
Image0048
Image0049
この中には池坊専永、森下洋子、千玄室、など有名人もおり、磯田通史のように東日本大震災のあとで「津波に弱いマツ林 根こそぎ抜け、凶器となる」(朝日新聞2013.4.27 磯田通史の備える歴史学)でいっぺんに嫌いになった人も載っている。
 畠山重篤さんのエッセイ「沈黙の海からの復活」を真っ先に読んだ。畠山さんには『森は海の恋人』などの著書があり、牡蠣を養殖するためには、川の上流の森を豊かにすることの重要性を説いている人である。

DSC_1777
このエッセイは、日本経済新聞文化面(2019.3.10)に載った文章である。

気仙沼在住の畠山重篤さんは、東日本大震災で津波に遭った時の様子を次のように書き始めている。

 巨大な津波は沿岸域のあらゆるものを海に引きずりこんでいく。ビルのような石油タンクもひとたまりもない。その油に火がつく。海が燃えるのだ。火の海は街に侵入し火災が起こる。大津波は、水責めと火責めが同時に起こるのだ。
 海の色は混濁し阿鼻叫喚色とでも表現するしかない。海辺から生き物の気配が消えた。
 レイチェル・カーソンは、農薬にまみれた農地から生き物が姿を消した様を“沈黙の春”と表現したが、沈黙の海と化したのである。
 (ここで私の「沈黙の春」を探したが見つからなかったのでインターネットから新潮文庫版の表紙を紹介)
沈黙の春
 五月になって、海辺で遊んでいた小学生の孫たちが息せき切って伝えてきた。「おじいちゃん、海に魚がいる」と。

このことばは私にとっては驚きであった。気仙沼に住んでいる子どもが、海に魚がいることに驚くとは!! それほど東日本大震災の被害は大きかったのだ。

 (中略)ほどなく駆けつけて海水を採取し、顕微鏡を覗いていた先生(京都大学名誉教授田中克先生)がこうおっしゃった。
「畠山さん、安心してください。牡蠣が食いきれないほど植物プランクトンがいます」。さらに付け加えて「〝森は海の恋人〟は真実です。気仙沼湾に注ぐ大川流域の環境保全運動を続けてきた功を奏していますね」と。
 牡蠣の漁場はどこでも河川水が海に注ぐ汽水域である。森林の腐葉土に含まれるさまざまな成分が、牡蠣の餌である植物プランクトンの発生に関与していることに気づいた私たちは、平成元年(1989年)から〝森は海の恋人〟を標榜し、大川上流の岩手県一関市室根町の山に落葉広葉樹の苗を植え続けていた。
 その活動が、沈黙の海の復活に役立っていたとすれば、それは大きな希望である。

 (中略)

 もう一つ嬉しい希望があった。あの時の大地震で当地方の地盤が80センチほど沈下したのだ。満潮時には、80センチ高くなった潮が陸地側に川を遡って侵入してくる。我が舞根湾奥には、耕作を放棄した水田が広がっていた。そこに潮が侵入し、汽水湖となったのだ。
 汽水湖が生命を育む水域であることは周知のことである。女性の子宮のようなところだと表現する人もいる。
 待ってましたとばかりさまざまな生き物が殖えだした。イサザアミという汽水域で繁殖する甲殻類がすごい。すると、それを餌とする小魚が現れた。もっとも嬉しかったのはドロボウカツカというハゼ科の小魚(和名チチブ。天皇陛下が研究されていることで知られる)が出てきたことだ。
 子供の頃、ハゼ釣りをしていると、さっと出てきて餌を奪っていく。ドロボウのように餌を盗んでいくのでこの名前がついた。

(中略)

 だが、思わぬ難敵が現れた。農水省の農地復興予算だ。塩漬けになった耕作放棄地を、ただで埋め立て、農地に戻してやるという。
 少なくとも30年は放棄されている土地だ。もともと農地には向いていないし、耕作する人もいないのにである。だが、ただという誘いに惹かれ、埋め立てを始める地権者が現れ出した。「なんとかこの環境を残してくれませんか」と、調査に来ていた京大生に切望された。訝しがる銀行を説得し、融資を成功させ、湖の部分を購入した。
 「借金を返すまでは死なないでくださいよ」
 息子たちの愛の言葉を背に受け、汽水域と向き合っている。
(はたけやま しげあつ=牡蠣養殖業・日本経済新聞文化面 31年3月10日)

地震でよかったこともあるものだ。地盤の沈下により汽水域が増えたのだ。「復旧事業」とは旧に復す(もどす)ことだから、お役所仕事は仕方のないことかも知れないが、畠山さんは私財をなげうって汽水域の保存に取り組むことになった。一度行ってみたい。