今月2度目の葬儀に参列した。私の9年半年上の先輩だった。佐藤隆先生。彼は小学校、中学校で勤務したあと高校の急増期に高校教員となり、二ツ井高校の創立期からの教員だった。杉渕校長の片腕となって二ツ井高校の創立に尽力した人であった。
私が初めて先生に出会ったのは、国語科の研究紀要を調べてみると、昭和45年10月20日。二ツ井高校で行われた「県北地区国語教育研究会」。この大会で公開授業を行ったのが佐藤隆先生だった。私の高校当時の担任白鳥邦夫先生も研究会終了後の懇親会・二次会にも参加し、最後は京校長宅での3次会にも参加していた。今思うと変な光景だが、京校長、荒谷浩県教委指導主事、白鳥邦夫先生、佐藤隆先生と一緒に、わずか15坪ほどの校長住宅の一室に、まだ20代の若造が一緒にいたのだ。白鳥先生が連れて行ってくれたのかもしれない。私は花輪高校に勤務していたが、その日は能代の実家に帰ればよかった。当時は終列車も遅い時間にあった。
 私が二ツ井高校に赴任したのはそれから2年後、昭和47年夏の二ツ井大洪水のあと昭和48年4月から。佐藤隆先生が大館鳳鳴高校に転勤したことに伴っての異動であった。同じ国語科の教員なので二ツ井高校で同職することはなかった。
 佐藤隆先生と同職したのは昭和52年の能代北高校から。その後佐藤先生は小林洋先生のあとを受けて卓球部顧問となり、インターハイ出場を果たしたが、特筆すべきは昭和57年秋の東北選手権大会?で東北ランキング2位の選手を生み出したことだった。先生もよほど嬉しかったのだろう。先生から電話があり、私ともう1人の先生が東能代駅で出迎え、そのまま東能代で祝宴を開いたことを覚えている。
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葬式には、その東北2位の工藤選手も参列していた。もう1人近藤(現姓)さんという昔の生徒からも挨拶されたが、思い出せなかった。当時の担任の先生の名前がわかれば連想できるのだが。

葬儀の時に、この遺影を見ながら思い出していたのは、東京オリンピックの時、当時二ツ井高校に勤務していた佐藤隆先生が、同じく二ツ井高校教員で、フェンシング部顧問をしていた佐々木信勝先生と2人で東京オリンピック開会式に行った話であった。その話をおもしろく話してくれたことがあった。

佐々木信勝先生は秋田県にフェンシング競技を普及した人である。当時オリンピック競技の大会役員をしていた。彼らは乗用車に秋田米をいっぱい詰め込んで出発した・・・。(さまざまなエピソードを話していたが)
 開会式のチケットは1枚だけ。最初に入場した1人が途中で抜けだし、待っていた1人とブレザート類も全部着替えてもう1人が入場したそうだった。
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次のスライドが彼をよく表している。佐藤隆先生はクルマが好きな人だった。私が能代北高、能代高校で同職していた時はずーっとブルーバードだった。
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喪主は詳しくは話さなかったが、先生はスキーにも詳しかった。スキーはコガサカがいいとか教えてくれたこともある。コガサカというのはスキーメーカーの名前だと思うが、花輪高校に勤務したことがあってもスキーをしたことがない私は何もわからなかった。その後に勤務した能代高校では水泳部の顧問をしたこともある。先生は自分が扱うことについてはトコトン調べてみないと気が済まないのかもしれない。
大館商業高校の校長をしていた時には、国語団体の研究会の指導者に私を呼んでくれたこともあった。

残念ながら先生の遺品が陳列されていることに気付いたのは帰る時だった。
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今月参列した2つの葬儀で気付いたことがひとつ。どちらも喪主は他県に住んでいる。先日の喪主は新潟県。今回は宮城県。前回は喪主あいさつの時に、喪主が話したあと「異例ですが」と断ったあとで
毎日看病していた奥様も看病の様子を話してくれたことがあった。