昨夜6月28日夜、NHK「ダーウィンが来た」を見た人は多いだろう。残念ながら私はいつもこの時間は入浴時間になっているので、断片的にしか見ていないが、その再放送が明日30日朝4時からあるので、見てくれという連絡があった。
こんな画像である。
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これは南米アルゼンチンでホタルが大乱舞している様子である。下の画像はまるで地球全体をホタルが舞っているような感じさえする。この画像を撮したのは野村哲也氏。野村氏が能代のある人と縁があるというのだ。
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それは同職した人の息子さん平川慧君(ここをクリックすると市民ギャラリーの写真)のことである。
2017年(ここをクリックすると下の方に画像)10月、2018年(ここをクリックすると画像)10月は「まちなか美術展」という形で開催された時に平川慧君の絵が紹介されていた。

平川慧君のお母さんから送られて来た資料では、野村哲也氏が5月15日(年は不明)に書いた手紙。
平川さんから電話が来たので確認したところ、今年の5月15日フェイスブックに載った文章だそうだ。

 2年前、僕は記念講演に呼ばれて名古屋にいた。
 会場の後方で控え、もうすぐ出番という時、最後列で絵を描いている一人の青年の絵に目が釘付けとなった。
 一流の絵と、二流の絵、その差は一体どこにあるのだろう? 世界最高峰の画家、フェルメールの作品をいくつか鑑賞すれば、その答えはおぼろげに見えてくる。
 五感で感じる美を大切にし、心から湧き上がるものを表現することが芸術の真意なら、そこから更に自分という存在を消す、またはその芸術表現の中に完全に自身を溶け合わせたものを、一流と呼ぶ。つまり、個性がゼロ。そのままのリアルな現実が、絵というキャンパスに封じ込まれているのだ。それは見る者と絵画の間に画家を一切感じさせないため、その時代の喧騒や香りまでもが、ありありと浮かび上がってくる。自分を消す、または存在を宙に溶かす。これは教えて出来るものではなく、自分で没頭した時や、神がかった時に初めて実感する、芸術家の僥倖だ。
 まさか・・・、彼の絵は一見カラフルな点が不規則に並んでいるが、俯瞰して見ると、完璧な調和を奏でていた。
「ゼロの状態で描かれていますね」。横にいたお母さんにそう伝え、僕は壇上へ向かった。
 講演を終えてから、少しだけお話する機会が。画家の名前は平川慧くん。相手の心も、自分の心も、とても大切にする青年だった。
 まるで、現代の山下清画伯だな。慧くんが描く点と模様が、画伯のちぎり絵と重なった。山下清画伯の作品で、僕が最も愛しているのが「長岡の花火」。この絵もまた、山下清という存在が消えた傑作だ。
「野村さん、慧の作品が、近くのお店の包装紙に使われるようになって」
 秋田県能代市の「木能実」さんの製品(ドライフルーツ)が、カラフルな色合いの包装紙に包まれて、手元に届いたのが昨日。慧くん、おめでとう。これからも素敵な「ゼロの絵」を描き続けて下さいね。期待しています。