今日、遅い昼食を摂っていた時、2年後輩のK氏からスマホに電話があった。話を聞いている時に固定電話も鳴って家内が対応したので、聞き取れない部分もあったが、要するに「能代公園の文学碑についての説明文を北羽新報に投稿してくれ」というものだと理解した。
なぜ、私にそういう電話が来たかというと、昔、1年間だけ能代北高校で文芸部の顧問をしたことがある。その年の活動として能代山本の文学碑を探そうということになり、その年の文化祭で写真を展示した。当時の資料を見ると文化祭は昭和60年9月7日に行われた。部員の中に旧山本町の人がいて、個人宅の庭に句碑があるというので、飛塚の個人宅に伺って写真を撮らせてもらったことや、下岩川の宮ノ目に郵便局があって、そこまで歌碑を見せてもらいに行ったこともある。たしか出征した家族の歌碑だったと思う。昭和60年度のことだった。

その夏には盛岡市で第3回?の全国高校総合文化祭が開催され、文芸部で参加。さんさ踊りに感激したこともあった。翌春私が転勤したので、次の年の文芸部の活動はわからない。

その内容は「能代山本地方の文学碑」というタイトルで私のホームページに載せていたのだが、今はブログ作成だけをしているので、そのページがどうなっているかわからない。

K氏の電話の中に「能代公園の石川理紀之助の歌碑はみつからなかった」という言葉があった。それが気になってすぐに能代公園へ。
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旧盤若町まで行くと赤いポストの家がある。中学同期生の家だ。この家は昔はお店をやっていた。
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同じ場所から視線を右に向けると能代公園の入口。この左側のブロック塀が昔は◯◯商店だったのだ。渟城第二小学校出身だった私は、中学に通うようになって、始めて能代公園に上った。能代公園は能代一中生の通学路。女子はこの写真に見える坂を上るが、男子は石段を登って通学する習慣だった。自転車通学をする人はほとんどいなかった。
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この石段を上った広場を 三の丸 と呼ぶのだろうか? 昔はそこの桜もきれいだった。今は桜が3本、梅が3本残っていた。三の丸では梅の花が咲いていた。
次の石段を上れば 二の丸 といわれる広場がある。
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この石段を上れば二の丸になる
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その二の丸にはこんな庭があった。
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この画面の右端に見えるのが石川理紀之助の歌碑。
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この歌碑の説明としては、昭和62年1月26日付けの「広報のしろ」に掲載された「のしろの碑(いしぶみ)9」がある。
のしろの碑(9)
この碑の左側に見えるのは池だった。
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もう一度先ほどの写真を掲載する。今はいしぶみの後ろに木はなく明るくなっているが、昔は碑の後ろは鬱蒼と木が繁っていた。碑の後ろに階段のように見えるものがある。私も上って見たが急勾配で上れなかった。隣の松の木の中に石組みがあり、昔は滝が流れていた。水を循環させる方式の滝だったと思うが、この池には亀が飼われていたような記憶がある。
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石橋は昔はなかった。あとから付けたものか? この写真左端の場所にあづまやがあった。土台部分だけが残っていた。
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能代公園にはこのほかに句碑のアパートのような俳星碑、句誌『俳星』を創刊した島田五空の句碑、『俳星』の主幹を務めた石田三千丈の句碑、歌人高階梅子の歌碑がある。後日紹介しよう。